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Profile

代表 / 大川 知隆

生年月日

  1992年 7月 10日

所 在 地

  千葉県旭市

趣  味

  旅行(47都道府県制覇まであと13県)
​  神社仏閣巡り・
ボードゲーム

​  苔テラリウム・サボテン栽培

対応業務

  動画撮影・動画編集・映像制作
​  ライブ配信オペレーション

  撮影技術指導・編集技術指導

​  デザイン制作・ドローン空撮

わたしの実績

幼稚園撮影

◆運動会撮影
◆発表会撮影
◆卒園式撮影
​◆卒園記念品制作

(25園)
(19園)
(9園)
(5園

小学校撮影

◆運動会撮影
◆卒業式撮影
​◆卒業記念品制作

(11校)
(8校)
(9

中学校撮影

◆運動会撮影
◆文化祭・合唱撮影
◆卒業式撮影
​◆卒業記念品制作

(7校)
(14
校)
(9
校)
(5

高等学校撮影

◆卒業式撮影
​◆卒業記念品制作
​◆その他行事撮影

(7校)
(2
(5校)

※旭市・匝瑳市・香取市・東庄町・銚子市・富里市・成田市・印西市・山武市・東金市・千葉市・市川市・
​ 市原市・四街道市・八千代市・我孫子市・流山市・柏市・船橋市・習志野市・松戸市・茂原市・大網白里市
 神栖市・潮来市・取手市・石岡市・守谷市・つくば市・水戸市
​ の教育機関撮影経験があります。

その他撮影実績

◆キッズダンスイベント
◆少年野球大会
◆千葉県吹奏楽コンクール
​◆東関東吹奏楽コンクール
◆千葉県アンサンブルコンテスト
◆吹奏楽部 定期演奏会
​◆ミスあさひコンテスト
◆旭市七夕市民まつり 開会式
◆黒潮よさこい祭り
◆銚子市成人式
​◆吹奏楽イベント
◆市長選挙立候補予定者公開討論会
◆アーティスト音楽ライブ
◆民放テレビ局バラエティ番組
​◆民放テレビ局情報番組
​◆民放テレビ局年越し番組

撮影・ライブ配信
撮影・ライブ配信
撮影
撮影
撮影
撮影
ライブ配信
ライブ配信
撮影
ライブ配信
撮影
ライブ配信
撮影
​撮影
​撮影
​撮影

※所属企業に関わらず、2011年以降に大川が撮影を行ったイベント・行事の一部です。

経歴

2011年3月
2011年4月
2013年6月
2015年4月
2017年9月
2021年7月
2023年10月

千葉県立銚子商業高等学校卒業
千葉市の映像制作会社でアシスタントカメラマンを務める
日本テレビでカメラマンを務める
銚子テレビでディレクター・カメラマンを務める
有限会社カラーズで映像制作事業部KOLORSを立ち上げる
有限会社カラーズ 代表取締役就任
独立しSmile Coreとして映像制作事業を始める

わたしの経歴

2011年3月
2011年4月
2013年6月
2015年4月
2017年9月
2021年7月
2023年10月

千葉県立銚子商業高等学校卒業
千葉市の映像制作会社でアシスタントカメラマンを務める
日本テレビでカメラマンを務める
銚子テレビでディレクター・カメラマンを務める
有限会社カラーズで映像制作事業部KOLORSを立ち上げる
有限会社カラーズ 代表取締役就任
独立しSmile Coreとして映像制作事業を始める

わたしのこと

わたしのこと

わたしがビデオカメラマンになったわけ

私は小学校から高校まで吹奏楽部に所属していました。

高校時代にご縁があり、陸上自衛隊中央音楽隊の定期演奏会に行った際、その演奏レベルの高さに鳥肌が立つほどの衝撃を受けました。

さらに、団員の皆さんが非常に楽しそうに演奏している姿を見て、「自分もこの中で一緒に演奏したい」と強く思い、高校1年から自衛隊音楽隊を志すようになりました。

それからというもの、平日は学校の部活動として練習に励み、週末には都内でプロ奏者のレッスンを受ける生活が始まりました。

当時のことを思い出すと、今でも一番はじめに出てくるワードは「めちゃくちゃ辛かった」です。

「楽器のプロ」と呼ばれる方々は、3歳くらいから楽器を始め、幼い頃からプロの先生にレッスンを受け、音大に進学して、やっとプロになれるような世界です。

私が楽器を始めたのは10歳と遅く、楽器のプロになろうなんて思ってもいなかったので、それまでレッスンを受けたこともありませんでした。

高校卒業後は「地元の条件の良い会社に就職しようかな~」くらいの、ほんわかした状態だったのです。

しかも、音大に行かずに高卒で自衛隊音楽隊入隊を目指していたので、他の人との差を埋めるために、先生のレッスンもより厳しいものでした。

東京からの帰り道は、なかなか上手くならない自分に腹が立ち、悔しくて毎回泣きながら電車に乗っていたほどです。

辛すぎて何度も「もう辞めたい」「音楽隊に入れなくてもいい」と、諦めてしまおうかと考えました。

でも、音楽隊受験に向けて数百万円もする楽器購入の補助をしてくれた祖母、毎週のレッスン代や交通費の負担があるにも関わらず応援してくれている両親、練習がうまく行かずに落ち込んでいるときに盛大に気を遣って支えてくれた仲間たち、そして心を鬼にして本気で指導をしてくれた先生のことを思うと、「やっぱり辞める」なんて口が裂けても言えませんでした。

「絶対に諦めない」と心に決め、無我夢中で受験に向けて練習をし続けました。

私が受験を予定していたのは、陸上自衛隊一般幹部候補生の「音楽要員」です。

音楽隊と言っても、自衛隊員ですので、音楽隊試験の前に自衛隊試験があります。

自衛隊試験を無事にクリアした後に音楽隊の試験があり、毎年約300人が受験をし、30人程度が採用されるという非常に狭き門です。

さらに、私の担当する楽器は例年1~2人の採用と、非常に倍率が高い試験でした。

自衛隊には地域ごとに広報担当の方がいらっしゃるようで、受験に関わる書類の準備や自衛隊試験対策の勉強指導など、親身になってサポートしてくださる方がいました。

「弱音を吐いていたら喝を入れてください」とお願いしながら、勉強も頑張っていました。

勉強も少しサボるとなぜかすぐにバレるので、結構必死でした。

音楽隊受験を目指して約2年が経ち、いよいよ音楽隊受験に向けてのラストスパート。

鬼にしか見えなかったプロの先生も、ごくごく稀に笑顔を見せてくれるまでになりました。

そんな時、私の電話が鳴りました。お世話になっている自衛隊の広報の方からです。

「残念だけど、あなたが担当する楽器の募集人数は、ゼロでした」

と告げられました。

頭の中が真っ白になりました。

募集人数ゼロということは、受験すらできないということです。

約2年という短い時間ではありますが、たくさんのことを我慢してがむしゃらに頑張ってきました。

その2年間の努力が無駄になってしまうということももちろんですが、なにより応援してくれた方々に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

ひとまずレッスンを受けている先生に連絡をしたら、「一旦、心の整理をしましょう」とだけ言っていただき、しばらくレッスンはお休みになりました。

その日、その後自分がどうしていたのかは全く覚えていません。

ショックで一睡もできずに、翌日は部活動の休日練習の日でした。

家で一人でいたらどうにかなりそうだったので、とりあえず無心で練習に行きました。

いつも通りの休日練習を終えた後、私が帰ろうとしていたところ、同期のメンバーから「このあと慰労会やろうぜ~」と誘われました。

正直そんな気分ではありませんでしたが、今まで支えてもらっていたのも事実です。

せっかくの誘いだしと、慰労会を開いてもらうことにしました。

誰かが顧問の先生に許可を取ってくれたようで、学校の部室で慰労会をすることに。

近所に買い出しに行って、慰労会がスタートしました。

 

私は人に気を使われたり、慰められるのが苦手なので、「なにを聞かれるのか?」「慰められたらなんて反応しようか?」と、かなり心配していましたが、全くそんなことはなく、買ってきたものを食べて、くだらないことを話すだけの、慰労会というより、ただ部室で買い食いする会でした。

1時間位経ったころ、誰かが「自分たちの演奏のDVDを見よう!」と言い出し、みんなで見ることになりました。

あんまり楽器関連の話題をしないで欲しかったので、「まじか、、、」と思いましたが、いざ始まったら普通に見て、普通にみんなと思い出話をしたり、普通に笑っている自分がいました。

自衛隊音楽隊を目指し始めてからというもの、演奏会が終わったらすぐに東京にレッスン行ったり、練習に戻ったりと、今までは自分のことに必死すぎて、演奏会の余韻を楽しむようなことはできませんでした。

でもこうやって過去の演奏会の思い出話しに花を咲かせられるのは、映像って凄いなと思いました。

そして【映像は大切な思い出を形に残せる唯一の方法だ】ということを、その時に強く感じました。

人生で初めてのどん底の時に誘ってくれた同期メンバーはもちろん、大切な思い出を形に残しておいてくれた映像業者の作品に、心が救われました。

「わたしも、誰かの大切な思い出を形に残せる仕事がしたい」

そう思ってビデオカメラマンになりました。

そして今、あの時見た演奏会の映像の撮影しています。

高校を卒業して制作会社に入社し、映像業界に入って今年で15年目になりました。

今でもその時の気持ちを忘れずに、「その一瞬の大切な記憶を、一生の大切な記録に残す」という精神で邁進しています。

ちなみに、あの時見たDVDは、今でもわたしの宝物です。

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